ビジネス書読むの辞めた

勤めて一年になる会社を辞める。悪い会社でも無いが、別の面白そうな会社で働くことにした。

ビジネス書読むの辞めた宣言の背景は二つある

その1:会社では時々ビジネス書の話しになった。SNSで話題に海外スタートアップの立ち上げや仕組みの話。年下の上司は「うちでもこういうの出来ないですかねぇ」とよく言っていた。マネージャーに同じ本を配ることもあったし、よく参考の記事のURLだけ送ってくることもあった。

どれも参考になるけれど、これを読んでも上司と同じ思考回路になるだけで(それも大事だけど)つまらないなと強烈に感じてしまったからだ。

その2:ダイバシティを考えるカンファレンスに参加した。ワールドカフェ形式でダイバシティについて意見交換をして、会の最後でそれぞれオススメの本を発表するのだが、殆どがビジネス書かもしくは自己啓発本。15人の参加者で同じ本をオススメしたのがそのうち4人。何がダイバシティだろうか。

必要な本ではなく、読みたい本を学生の時のように読みたい。そう思って本屋でこのところ本を買っている。

今日買ったのは「ものを創る」白洲正子、「アトリエ会議」保坂和志横尾忠則磯崎憲一郎の対談もの。そして「壇蜜日記」。壇蜜、抜群に面白い。

素通り

前職のオフィスの最寄り駅のJR改札を出て、地下鉄へ乗り換えるエスカレーターを降りたあたりの支柱の脇にいつもそのホームレスの初老の男性はいた。

キャップをかぶりリュックを背負って、Tシャツという格好で、強い臭気もないので、気にしなければホームレスとは思わないかもしれない。

最初は誰かを待っているのかと思ったけれど毎日同じ場所にいる。ホームレスだとわかったのは少しあとで帰宅時に駅近くで寝泊まりしているのを見たからだ。

ある朝、その男性が女性に話かけている。すれ違いで聞こえたのは、お金を落として困っていることだった。その女性がお金を渡したかまでは見ていないけれども、時々そうし声をかけてお金を恵んでもらっているようだった。

転職してからしばらくして、たまたまその駅へ降りた際にまたそのホームレスの男性を見た。

「あぁまだここでいるだ」と思ったが、被っていたが様子は違った。手にはビッグイシューを持ち掲げている。キャップもビッグイシューのものに変わっていた。

でもやっぱりその脇を素通りしていくのだけど。

 

 

『モモ』と父の本棚

まもなく5歳になる娘は最近ひらがなを覚え、絵本も長いものも聞いていられるようになってきた。そろそろ絵の無い長い物語を連日読んでいこうと思ったときふとミヒャエルエンデの『モモ』を思い出した。

自分が子どもの頃に映画見た断片的な記憶しかないけれど、女の子が主人公のファンタジーということは覚えていて、時間の概念も出てきた娘には「時間泥棒」という言葉も面白いだろうと思った。

同時に実家の父親の本棚に『モモ』があったことも面白い出した。

父の本棚。高校生の頃だったかふと見た父の本棚はビジネス書ばかりだったと思う。その中に一冊『モモ』があった。手は伸ばさなかったけれど何となく記憶していた。

 

15年振りに父の本棚を覗く。すぐにあると思った『モモ』は見つからなくて、既に定年退職しているのに相変わらずビジネス書がある。その中に「シュタイナー教育」に関する本が見つかった。父親は小さい頃からよく遊んでくれたものの仕事は忙しく家事はしない人であった。

育児にも興味が無いと思っていたので意外だった。自分もシュタイナー教育的なものは受けた記憶はない。

妻がそうだったように、女性は出産の際に自分の母親から「母親の体験」を教わるのではないか。実際妻は娘を妊娠しているときに母親から自分の母子手帳を見せてもらったり、体験を聞いている。

翻って僕はといえば父から自分が父親になる際に何かを教わってはいない。母親曰く「あの人(父)は出産の時は仕事だったわよ」。でも自分の父が悪いとは思わない。団塊の世代父親たちで子どもの出産に立ち会った人の割合はきっと今出産に立ち会う父親たちよりも少ないはずだ。そうした僕らは自分の父親から育児ついて何か受け継いでいるだろうか?

 

このブログを書きはじめた理由の一つは上記のような経緯で、自分が父親としてどのようにして育児に向き合っていけばいいのかを記録しようと思うからである。